園に色よく咲初めて
紅をさすが

品よくなりよく
ああ姿優しやしおらしや
さっさそうじゃいな
そうじゃいな



朝日山々を見渡せば
歌の中山石山の

末の松山いつか大江山
生野の道遠けれど

恋路に通う浅間山
一と夜の情け有馬山

煩悩菩堤の撞木町より
難波四筋に通い木辻に

禿立から室の早咲きそれがほんに色ぢゃ
一イ二ウ三イ四ウ
夜露雪の日
大いなる感謝。
ここまで導いてくださった師匠をはじめ、今日の舞台を実現してくれた後見さん・スタッフさん、多くの皆さんへの感謝。
そして何よりも、今日この舞台を観てくださった観客の皆さんへの、最大限の感謝。
たくさんの大いなる感謝の気持ちでいっぱいとなります。
そしてまた、舞踊家としての自分は、心の中で祈ります。
感謝のきもちとともに祈ります。
もう一度、多くの皆さまとともに、舞台を作り上げてみたい。
次の時には、もっとよい舞踊家であるよう、精進する事を誓いながら、「もう一度」のチャンスの訪れに祈ります。
終わりなき「感謝」と「祈り」の旅。
私にとっての日本舞踊は、そんな果てしなき旅なのです。
日本舞踊家としての命を燃やす尽くすように、表現者として、最大限のメッセージを踊り尽くすことを目指した舞台の幕が、 静かに下りていきました。
そして、緞帳[どんちょう]のこちら側では、一瞬の静寂が訪れます。
舞台の幕が上がった時と同じような、静寂の一瞬です。
幕が降りた静寂の一瞬、日本舞踊家としての自分に戻って、こんなことを想います。
自分の演技が良かったのか、悪かったのか。
お客様に伝えることができたのか。
想いをともにすることができたのか。
燃え尽きて、真っ白になった頭の中で必死に想いを巡らせます。
日本舞踊家として、踊り終えた充実感と、
伝えきれてないのではという不安感を、
体力の限界を超えたこの一瞬の中で、
必死になって考えようとします。感じようとします。
表現者として、もっとも充実した一瞬でありながら、もっとも“飢えた”感覚に襲われる一瞬でもあります。
踊り詰めて、最高の高みは目の前です。
道成寺の鐘への恋の怨念を秘め、鐘へと走りこむ瞬間。

花の姿の乱れ髪思えば思えば恨めしやとて
竜頭に手を掛け飛ぶよと見えしが
引きかついでぞ失せにける

竜頭に手を掛け、鐘をつるす綱を手繰り寄せるように怨念のクライマックスへと、登りつめます。
この瞬間が、それまで重ねてきた京鹿子娘道成寺の世界を決定的なものにしてしまいます。
舞踊家としては、それまでの自分の舞踊に対する、最後の審判へ向けて、形無き階段を上っていくような感覚です。

そして、大蛇と化した白拍子花子は、最後の力を振り絞って、怨念のクライマックスの表現を絞り出します。
感情の爆発と、表現の爆発。
ふたつの爆発をこころにキープしながら、ほんとうに最後の所作を、絞り出す感覚です。
そして、幕が下ります。
そして、日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】が向かう先は、鈴太鼓を巧みに操りながら、 鐘への怨念の高みに登りつめていきクライマックスへと向かう、最後の瞬間。

ああ姿優し やしおらしや
さっさそうじゃいな
そうじゃいな

皐月五月雨
早乙女早乙女
田植唄田植唄
裾や袂を濡らした
さっさ
急なテンポで踊りつめ、京鹿子娘道成寺の世界のクライマックスへと向かいます。
これまで踊り重ねてきた空間が、一気に朱色に染まっていくかのようなイメージで踊り詰めていきます。
舞踊家としての体力は、これまでの緊張感から、疲れがピークを迎えている瞬間でもありますが、これを振り払うかのような踊りを重ねて、 最高の瞬間へと向かって、ダッシュしていきます。
舞台は、様々な時間をくぐりぬけながら進んでいきます。
まるで私の手を離れていくかのように進んでいきます。
そんな移り気な舞台空間を逃さぬよう、舞踊家としての私は、必死で追いかけるように、踊り重ねていきます。
そして、リズムよく鞨鼓[かっこ]の踊り。
面白の四季の眺めや
三国一の富士の山雪かと見れば
花の吹雪か吉野山
散り来る散り来る嵐山

山づくしの詞章です。
沢山の山々を読み込んだ、テンポのよい、明るい踊りの場面。
京鹿子娘道成寺の世界は、まさにエンターテインメントの粋が集まった、最高の世界。
お客様とともに、この空間に存在できる事に、改めて感謝しつつ、踊り重ねていくのです。
何とか出だしを乗り切って、お客様とのコラボレーションを楽しんでいる間もなく、最大の難所ともいえる「クドキ」の場面となります。
このあたりまでは、本当に一瞬の出来事のようです。

恋の手習つい見習いて
誰れに見しょとて
紅鉄漿つけよぞ
みんな主への心中立て
おお嬉し
おお嬉し

少しだけ落ち着きながら、お客様の呼吸を感じながら、舞台は進んでいきます。
ほんのひと間の油断が、舞台を台無しにしてしまう事もあります。
この舞台に、まるで蜘蛛の巣のようにはりめぐらされた時空間の絶妙な間合いに、舞踊家のひと呼吸を、最後の味付けとして、加えながら、 全体を調和させる。そのことだけに集中して、日本舞踊の深遠な世界に身を沈めていきます。
そして、緞帳[どんちょう]の中、多くの舞台スタッフさんが、慌しく舞台の準備を進めているところへと、足を踏み入れます。
板に足を踏み入れた瞬間に、解けかけた緊張が、一気に湧き出してきます。
例えるなら、お湯が沸騰する瞬間のような感じです。
舞台監督さんと少ない言葉を交わし、後見さんが、最終の衣装チェックと、引き抜きの段取りを、私の姿を見ながら、 イメージシミュレーションしています。
師匠が、舞台まで様子を見に来てくれました。
「あとは、思い切ってやるだけ。」
ほんの少しの言葉が、私のすべての不安を拭い去ってくれます。
私の迷いも、彼方へと飛ばし去ってくれます。
師匠はいつも、私の急所を見極めて、適切な言葉を、素晴しいタイミングで、プレゼントしてくれます。
「感謝」、この言葉しか思い浮かべることができません。
師匠への感謝。
後見さん・スタッフさんへの感謝。
多くの私を見守ってくれる皆さんへの感謝。
そして、まだ見ぬ今日のお客様への感謝。
感謝の渦が私を包み込むように、確かにここにあるのです。
そして、日本舞踊家として、未熟ながらもベストを尽くして、踊りぬくことを、こころの奥底で誓いながら、長唄【京鹿子娘道成寺】 の世界へと、実を沈めていきます。
もう帰らない旅へと旅立つような、そんなイメージで、【京鹿子娘道成寺】の世界へと、深く深く身を沈めていきます。
そして、板に上がる前、ちょっと素の舞踊家としての自分を取り戻しながら、のん気に「記念撮影」に取り組んでおります。
だって、舞台上ではどんどん引き抜きをして、衣装が変わっていってしまいますから、この衣装の姿は、舞台に出る前にしか、 写真撮影ができないものですから。

でも私の場合は、これが、自分を取り戻す、よいきっかけになっていたりもするのです。
そしてもうひとつ、舞踊家として大切なこと。
フルにメイク・衣装・鬘・烏帽子をした状態での、自分の「目力」のチェックを、密かにしていたりもします。
「目力」は、私が舞踊をする上で、最も大切にしているもののひとつです。
ときにどんな所作よりも、演者の目は、雄弁に多くのことを語ってくれたりするからです。
どんなに離れた場所、客席の最後列のお客様にも、その舞踊家の目が、生きているか死んでいるか、不思議なことに、 分かってしまったりするのです。
そして、その「目」に蓄えられた、多くの感情や力は、それひとつで、お客様の心をつかんだり、放したり、できてしまうものなのです。
この写真撮影では、すべての準備が整った状態で、カメラを見据えながら、いろんな目の表情を創り出してみたりして、 自分の内側から沸き起こる「目力」の最終チェックをしてみます。
いよいよ、鬘[かつら]をつけ、京鹿子娘道成寺の金色の烏帽子[えぼし]をつけます。
理想的には、このころ一度精神的な高まり状態が、ピークを迎えていると、最高の状態かな~、というのが、私の感じ方です。
このあたりは、偉大な先人たちは、違うのかもしれません。
あくまでも私の場合は、ということで、ご理解ください。
私の場合は、ここでいったん精神的なピークを迎えた後、もういちど役としての自分ではない、 素の舞踊家としての精神状態を取り戻しながら、もう一度念のために「さらに自分のこころとからだを再確認する。」 といった感じの状態になることができると、最高の状態で舞台に上がれるような気がしているのです。

ここでピークに達した後、さらに板に上がる前まで、少し素の自分を取り戻した後、緞帳[どんちょう]があがるその瞬間に、 最高のこころとからだを実現するのが、最もいいのでは、と思っています。
次に訪れるのは、着付けの時間。
相当に、自分の中では、雰囲気に入っていく時間帯です。
でも、見た目は、まだまだこんな感じです。

鬘[かつら]を未装着ですので、これもまたまた見栄えの悪い写真で、とっても恐縮です。
ただ、この段階で舞踊家としての自分は、実際の衣装の重みを体で受ける事で、この日の体調や、その瞬間の自分のコンセントレーション [集中状態]具合、今日の舞台に向けての今の心理状態などなど、色々な事を確認する事ができる瞬間でもあるので、 あえて取りあげさせていただきました。
ただ、この段階で役にかなり入り込みはじめてはいますし、自分の体や精神との内的会話を頻繁に交わしてはいますが、決して、 スタッフの皆さまや、楽屋裏を訪れていただけるお客様と、一切口をきかないわけではありません。
むしろ、自分の緊張状態の高まりとは裏腹に、周りの皆さまとの会話を楽しもうとさえする段階であったりもします。
自分の内的会話と、周囲の皆さまとの会話とを、どのように成立させてるのかというのは、一言では説明し切れませんが、 そんな一見矛盾しているかのような、「波間に漂うような感じ」の精神状態にあるのです。
本番前の徐々に緊張を高めていく、日本舞踊をはじめとする舞台人たち特有の時間。
・・・それは、化粧を施し、少しずつ上演する役柄に入っていく時間帯。
そうなのです。私にとってのそれは、どちらかといえば、
「役柄に変身する。」
というよりも、
「役に入っていく」
という感覚なのです。
舞踊家としての自分と、自分以外の尊い存在。
舞踊家としての自分が、徐々に自分以外の尊い存在である、「役」という存在に入っていく。もっと言えば、進入していく、 そんな感覚なのです。

集中するために目を細めていて、相当見栄えの悪い感じになっているので、小さい写真で、ご勘弁ください。
m(..)m
それから、こちらは、

ちょっと横になって、イメージの世界に漂ってみたりしているところ、、、です。
舞台へ向けて、徐々に緊張を高めていくために、舞踊家がすることは、どんなことがあるのでしょうか。
この「舞台の裏側コーナー」では、そんな普段はあまり公開されることがない上演前の様子や、上演中の演者の気持ち、 上演後の想いなどに焦点をあてて、お届けしていきます。
舞台での華やかな姿以外の、あまり美しくない姿も出てまいりますので、とても恥ずかしいのですが、 日本舞踊にご興味がおありの方々には、何がしかのお役に立てるような気がしますので、思い切ってお見せします。
「舞台写真」のコーナーと併せて、お楽しみくだされば幸いです。
では、次へとお進み下さい。
謹請東方青竜清浄
[きんぜいとうぼうしょうりゅうしょうじょう]
謹請西方白体白竜
[きんぜいさいほうびゃくたいびゃくりゅう]
一大三千大千世界の恒沙[ごうしゃ]の竜王
哀愍[あきみん]納受哀愍頻の砌なれば
何処に恨みの有るべきぞと
祈り祈られ飛び上り
御法の声に金色の花を降らせし其の姿
実[げ]にも妙なる奇特かや
謡うも舞うも法の声
エエ何でもせい何でもせい
春は花見の幕ぞゆかしき
夏は屋形の船ゆかし
ヨイヨイヨイヨイヨイ
ありゃりゃこりゃりゃ
よいとな
秋は武蔵野月ぞゆかしき
冬は雪見の亭ゆかし
ヨイヨイヨイヨイヨイ
ありゃりゃこりゃりゃ
よいとな
浮きに浮かれて
第一中有に迷うた
懺悔懺悔
六根罪障
南無不動明王 南無不動明王
ああ何でもせい ああ何でもせい
動くか動かぬか
曩謨三蔓陀縛日羅南
こりや動かぬぞ
真言秘密で責めかけ責めかけ
数珠のありたけやっさらさ やっさらさ
旋侈摩詞櫓遮那
何のこっちゃえ
婆姿多耶呼多羅
何のこっちゃえと祈りける
皐月五月雨[さつきさみだれ]
早乙女早乙女[さおとめ]
田植唄田植唄[たうえうた]
裾や袂を濡らした
さっさ
花の姿の乱れ髪
思えば思えば恨めしやとて
竜頭に手を掛け飛ぶよと見えしが
引きかついでぞ失せにける
ただ頼め
氏神様が可愛がらしやんす
出雲の神様と約束あれば
つい新枕[にいまくら]
廓[さと]に恋すれば浮世じやえ
深い仲じやと
言い立てて
こちゃこちゃこちゃよい首尾で
憎てらしい程いとしらし
花に心を深見草
園に色よく
咲初めて紅をさすが品よくなりよく
ああ姿優しやしおらしや
さっさそうじゃいな
そうじゃいな
面白の四季の眺めや
三国一の富士の山雪かと見れば
花の吹雪か吉野山
散り来る散り来る嵐山
朝日山々を見渡せば
歌の中山石山の
末の松山いつか大江山
生野の道遠けれど
恋路に通う浅間山
一と夜の情け有馬山
いなせの言の葉
あすか木曽山待乳山
我が三上山祈り北山稲荷山
縁を結びし妹背山二人が中の黄金山
花咲くえいこの この姥捨山
峯の松風音羽山
入相の鐘を筑波山
東叡山の
月のかんばせ三笠山
恋の手習つい見習いて
誰れに見しょとて
紅鉄漿つけよぞみんな主への心中立て
おお嬉し
おお嬉し
末はこうじやにな
さうなる迄は
とんと言わずに済まそぞえと
誓紙さえ偽りか
嘘か誠か
どうもならぬほど逢いに来た
ふっつり悋気[りんき]せまいぞと
たしなんで見ても情なや
女子には何がなる
殿御殿御の気が知れぬ
気が知れぬ
悪性な悪性な気が知れぬ
恨み恨みてかこち泣き
露を含みし桜花
さわらば落ちん風情なり
梅とさんさん桜は
何[いず]れ兄やら弟やら
わきて言われぬな
花の色え
菖蒲杜若は
何[いず]れ姉やら妹やら
わきて言われぬな
花の色え
西も東もみんなに見にきた花の顔
さよえ
見れば恋ぞ増すえ
さよえ
可愛らしさの花娘
言わず語らぬ我が心
乱れし髪の乱るるも
つれないは只移り気な
どうでも男は悪性者[あくしょうもの]
桜々とうたわれて言うて袂のわけ二つ
勤めさえただうかうかと
どうでも女子は悪性者[あくしょうもの]
都育ちは蓮葉[はすは]なものじやえ
恋の分里 武士も道具を伏編笠[ふせあみがさ]で
張りと意気地の吉原
花の都は歌でやわらぐ敷島原[しきしまばら]に
勤めする身は誰と伏見の墨染
煩悩菩堤の撞木町[しゅもくまち]より
難波四筋[なにわよすじ]に通い木辻[きつじ]に
禿立ち[かむろだち]から室の早咲きそれがほんに色ぢゃ
一イ二ウ三イ四ウ 夜露雪の日
下の関路も共に此の身を馴染重ねて 仲は丸山
ただ丸かれと 思い染めたが縁じやえ
花の外には松ばかり 花の外には松ばかり
暮れ染めて鐘や響くらん
鐘に恨みは数々ござる初夜の鐘を撞時は
諸行無常と響くなり
後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり
晨朝の響きは生滅滅巳
入相は寂滅為楽と響くなり聞いて驚く人もなし
我も五障の雲晴れて 真如の月を眺め明かさん
このコーナーでは、日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】の歌詞を、ご紹介します。
できるだけ見やすく、かつ全曲の雰囲気を掴んでいただきやすくするために、以下の点に
ご注意くださいますよう、お願いいたします。
■できるだけ原文に忠実であることにつとめていますが、
文献による少々の表記違いなどがあります。
そのため、見やすく雰囲気が分かりやすいものを採用しています。
学術的に正確でない部分もあるかもしれませんが、ご了承ください。
■台詞部分は、省略させていただきました。
■現代の上演では、省略されて上演されることの多い部分などは、
省略させていただいている部分があります。ご了承ください。
■長唄【京鹿子娘道成寺】の日本舞踊としての上演を、基準として
掲載しています。ご了承ください。
では、次ページより、お楽しみください。
仏教説話に端を発する伝説から産み出された、壮大な「道成寺物」といわれるものは、一体いくつくらいあるのでしょうか?
まずはじめに、能「道成寺」があり、ここで、
■女の恋の情念・怨念と、その恐ろしさ
■嫉妬心を燃焼させる
という主題的なテーマが設定されます。
ほかに「道成寺物」と呼ばれる演目は、主なものだけで以下のものが上げられます。
傾城道成寺[けいせいどうじょうじ]
日高川入相花王[ひだかがわいりあいざくら]
紀州道成寺[きしゅうどうじょうじ]
さなきだ道成寺
奴道成寺[やっこどうじょうじ]
男女道成寺
双面道成寺[ふたおもてどうじょうじ]
大津絵道成寺[おおつえどうじょうじ]
変化道成寺
切支丹道成寺[きりしたんどうじょうじ]
雪の道成寺
などなど。一般には、およそ三十種以上ある、と言われています。
また、これら道成寺物は、今でも新作が書かれることがあるのです。
能「道成寺」からはじまった「道成寺物」は、主題を受け継いで発展しながら、能「道成寺」のバリエーションという地位から開放されて、 今なお、発展し続けているのです。
観阿弥が世に認められたのは、12歳の頃だったと言われています。
京都での演能で認められて将軍の寵愛をうけることとなり、絶大な支援を得た事で、「能」 をよりいっそう芸術性の高い芸能へと高めていきました。
観阿弥の能は「幽玄」を理想とする父を受け継いだものでした。
また、世阿弥は「夢幻能」というスタイルを確立して、多くの作品を残しました。
観阿弥・世阿弥によって、その芸術性が確立された「能・能楽」は、現代にまで続く芸能となり、その舞台は、 今なお多くの人々を魅了し続けているのです。
| 次へ 「能 【道成寺】のストーリー1」
一方では、農村・農民の民族から発展していった「田楽」などの芸能もさかんとなり、 諸芸は互いに影響を与え合うようになっていきました。
鎌倉中期になると、「猿楽」に、物語的要素の強い楽劇が盛り込まれるようになっていき、笑いの芸能「狂言」 とともに上演される形式をとるようになっていきました。
この形式は、現代の能楽にまで続く、大きな流れとなっています。
そしてこの猿楽から、十四世紀後半、名手観阿弥[かんあみ]が登場するのです。
将軍足利義満の支援を受けた観阿弥は、舞の芸風だけにとどまらず、音楽面での発展にもおおきく貢献していったのです。
父観阿弥の偉業を受け継いだ世阿弥は、これをさらに発展させ、現代にまで続く「能」を芸術として確立するに至ったのです。
能は、その源流をたどっていくと、奈良時代にまでさかのぼる、と言われています。
奈良時代当時、「散楽」という芸能が大陸からもたらされました。
この「散楽」が、平安時代になると廃止されたことから、その役者たちが、各地に分散していきました。
分散した各地で集団を形成した役者たちは、寺社の祭礼で芸を上演し保護を受けたりして、その芸が生き延びていきました。
その頃、大陸風の名であった「散楽」にかわり、「猿楽」「申楽」[さるがく]と呼ばれるようになっていき、 滑稽味の物真似主体の芸と変化していきました。
これが時代とともに進化を遂げ、のちの「狂言」へと発展した、と言われています。
そして、恐ろしい物語を聞いた僧たちは、目の前で起った事件を理解しました。
娘の執念が、白拍子となって、再びこの道成寺に現れたのだ、ということが分かった僧たちは、必死の祈祷に励みます。
鐘から娘の化身である蛇体が飛び出してきて、挑みかかるが、ついには弱りはじめるのでした。
やがては、火を吐いて自らの身を焼き、川に飛び込んでいきました。
--------------------------
以上が、能【道成寺】のストーリーです。
このストーリーの核部分、
■もとになった仏教説話の後日譚であること。
■女の執心が蘇り、鐘を引きずりおろすこと。
これは、能から取り入れられた歌舞伎・日本舞踊においても共通しているのです。
目の前に突然おこった事件に、人々は皆驚愕します。
すると、人々の前で、住僧は、女人禁制の原因となった物語、道成寺縁起の話をはじめるのです。
それは、
真砂の庄司のひとり娘は、親が戯れに言ったことばを
信じ、熊野詣の僧を、自分の定まった夫と信じてしまった
のです。
熊野詣の僧のひとりを定まった夫と信じてしまった娘は、
この僧を必死にかき口説きます。
一方、口説かれた僧は驚いて逃げ出し、道成寺の鐘の中
に隠れてしまうのです。
あとを追ってきた娘は、毒蛇に化身して日高川を渡りきり、
道成寺の鐘の七巻で巻きつき、炎を発して、鐘もろともに
僧を焼き溶かしてしまったのでした。
女の恋の執念の恐ろしさを語る物語でした。
前へ 「能 【道成寺】のストーリー1」 | 次へ 「能 【道成寺】のストーリー3」
もと仏教説話である道成寺縁起より発した安珍清姫伝説をもとに、新しい世界観を作り上げた、能【道成寺】のストーリーを、 少しだけ見ていくことにします。
基本的には、もとになった安珍清姫伝説の後日譚というかたちを取っています。
--------------------------
ひとりの白拍子が、道成寺に鐘供養に現れます。
それは、焼失した道成寺の鐘が再建されるほいう日のことでした。
女人禁制であったが、能力[のうりき]は、白拍子の舞を見たくて、独断で白拍子を中へ入れてしまいます。
白拍子ははじめ、独特の間合いから乱拍子へ、という舞を見せるが、突然急の舞へと変化して、鐘に飛び入ったかと思うと、 それを引きずりおろしてしまうのです。
| 次へ 「能 【道成寺】のストーリー2」
日本舞踊【京鹿子娘道成寺】を語るとき、やはり「能」を抜きに語ることはできません。
【京鹿子娘道成寺】は、もと能「道成寺」から歌舞伎に取り入れられて変化・発展し、現在では、 舞踊界で最高の演目と言われるまでになったからです。
では、「能」とはどんな伝統芸能なのか、少しだけその素晴しき幽玄の世界を垣間見てみる事にしましょう。
| 次へ 「 【京鹿子娘道成寺】-【能】1」
【能】が【能】と呼ばれるようになったのは、明治期のことのようです。
中世以来、歴史的には、猿楽・申楽・猿(申)楽の能などなどの名称で呼ばれてきたのです。
まず、【能】と読んだ場合、
・広義では【能楽】と同義とされ、
・狭義では、式三番および能をさす、
といわれてます。
【能楽】と言う場合には、
■式三番
■能
■狂言(本狂言)
の三種類を総称するようです。
いずれも、伝統的な演劇であって、能楽師・狂言師によて、演じられるものです。
そして、現代では、ユネスコによって伝統芸能に認定されているのです。
真砂の庄司の娘である清姫に、僧安珍が迫られます。
僧安珍は、逃げて道成寺の鐘の中に隠れてしまいます。
追いかけてきた清姫は、その執念から蛇体に変じ、道成寺の鐘に巻きついて、鐘ごと溶かし殺してしまうのです。
これが、ごく一般的に知られている「安珍清姫伝説」です。
ただ、この伝説はもともと、女の怨念の深さや恋の執心の恐ろしさを物語る仏教説話からきていますので、 微妙に変化した様々な物語となって流布している事も事実です。例えば、道成寺縁起では、庄司の娘清姫ではなく、庄司の女房、 とされているものもあるのです。
いずれにしても、「女の怨念の深さ・恋の執心の恐ろしさ」をテーマとしていることころは、共通しています。
道成寺の説話は、もともと仏教説話として流布[るふ]したもの、と言われています。
「大日本法華経験記」[だいにほんほけきょうげんき]によれば、その物語は、
紀伊国の寡婦[かふ]が熊野詣の若僧に懸想した。その執心が大蛇と化して、鐘とともに若僧を焼き尽くすが、法力によって解脱[げだつ] する。
というものだったようで、女性の怨念の深さや恋の執心の恐ろしさを語る説話、とされています。
これが、一般に知られている安珍清姫伝説の原型のようです。
【京鹿子娘道成寺】では、全編通して、美しく咲き乱れる「桜」がメインのモチーフとなっています。
舞台は、もちろん全面が桜で装飾された、華やかなものとなります。
長唄の歌詞にある
「花の外[ほか]には松ばかり」
の指し示すとおり、山並みのなかに、美しく咲き乱れる桜の風景が描かれています。

■初演:宝暦二年(1752)八月
■作詞:藤本斗文[ふじもととぶん]
■作曲:初代杵屋弥三郎[きねややさぶろう]
■中村富十郎[なかむらとみじゅうろう]が初演
もとは、中村富十郎が、江戸下りのお名残として、京都は四条北側の嵐三右衛門座で踊ったもの、といわれています。
現在の『京鹿子娘道成寺』の原型となっているのは、初演の翌年、宝暦三年(1753)三月に江戸は中村座での踊りです。
龍の頭のかたちに作ってある。釣鐘の一部分をさしていいます。
釣鐘の梁にかける部分が龍の頭のかたちになっています。

ちなみに現代では、名称の因果関係などは、不明ですが、アナログの腕時計にある、出っ張った部分で、針を回したり、 秒針を停止させるたりする部分のことも「竜頭」といいます。
人との契りを守り通す事、の意味です。
「心中」だけとれば、相愛の男女が、合意の上で一緒に自殺することの意味になってしまいますが、「心中立て」のときの「心中」は、 比喩的な表現として、とある物事と運命をともにすること、をさしていると考えられています。
悋気[悋気]とは、嫉妬・嫉妬心とか、やきもちという心情をさしていいます。
京鹿子娘道成寺の歌詞では、しっとりとしたクドキのなかで使われていて、
「ふっつり悋気せまいぞと~」
と用いられます。
現代語でそのニュアンスを考えれば、正確ではありませんが、
「やきもちなんか、私は焼いてあげないからね。」
といったようなニュアンスと考えればいいかもしれませんね。

禿[かむろ]とは、遊女に小間使いとしてつかえる少女のことをいます。だいたい六歳から十三、四歳までの少女です。
そして、禿立ち[かむろだち]とは、遊女としてつとめに出る前、禿[かむろ]として仕立てられる時期をさしていいます。
遊里・遊郭・廓・色町のことをさしていいます。
日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】では、
「恋の分里 武士も道具を伏網笠で 張りと意地の吉原~」
の歌詞にあり、リズミカルな鞠唄[まりうた]の部分ででてきます。
白拍子花子はここで、少女が鞠をつくさまを踊って見せます
。
「浮ついた」とか、「軽薄」「軽率」「軽はずみ」などの意味ですので、歌詞中でいえば、「浮気な」といったような意味で考えるのが、 よいと思います。
現代語では、「蓮っ葉」[はすっぱ]と言うが、これは、「蓮葉」[はすは]から来ています。
「蓮葉商ひ」という、お盆の供物を盛るための「蓮の葉」を売る商売からきていると言われています。
「蓮の葉」は、お盆の期間にしか用いられないため、そこから発展して、「短期間しか役に立たないものを売る」という意味となった。
これが転じていき、「浮ついた」とか、「軽薄」「軽率」「軽はずみ」などの意味で、「蓮葉」が用いられる事になった、といわれています。
懐紙[かいし]は、傾城[けいせい]が胸にさしておきます。
折りたたんで懐に入れておき、茶席で菓子を取り分けるために使用したりするが、鼻紙としても使用したり、 詩歌を書き記すために使用する紙も、懐紙ということがあります。
日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】では、道行の場面で、白拍子花子が、この懐紙を鏡に見立てながら、身づくろいをした後に、 懐紙を丸めてポーンと捨てるシーンが有名です。
愛嬌あるシーンとして親しまれています。
京鹿子娘道成寺では、鞨鼓[かっこ]と同じ意味と考えてよいと思われます。
鞨鼓[かっこ]とは、中国伝来の雅楽の楽器ですが、これを小ぶりにしたものを使用しますので、腰鼓[こしつずみ]と呼びます。

修行中の僧や師の教えを受けている弟子をさしていいます。
広くは、寺に勤める役僧をさして、所化[しょけ]といいます。
日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】では、所化が重要な登場人物となります。
冒頭の場面では、白拍子花子とのやりとりがあり、途中では傘を持って踊り、最後は、大蛇と化した白拍子を祈り鎮めるのです。
「クドキ・くどき」とは、古典日本舞踊の基本的な構成でいえば、
■「起承転結」では「承」の部分にあたります。
■「序破急」でいえば「破」の前半部分にあたります。
ですから、演目の物語が展開したり、転機となったりしますので、その曲の中心部分にあたります。
しっとりとした踊りの進行なかに、「物語の発展が静かに語られる」そんなイメージでとらえていただくと、分かりやすいかもしれません。
また、クドキは、「口説[くぜつ]」から来ているといわれていて、文字通り相手を口説くことになります。
ただし、日本舞踊の場合は、女形芸術として作り上げられてきた伝統から、女性が男性を口説くことが圧倒的に多いのです。
葱[ねぎ]の若芽にちなんだといわれている、日本の伝統的な色のひとつです。
緑味のかかった青色という感じです。
昔の絹は、素材自体に黄色味がかなり残ってしまうものだったようです。
ですから、藍染めを薄く染める事によって、自然と緑色味が残った状態となり、浅葱の色合いができあがった、ともいわれています。
関連する色名には、
■錆浅葱[さびあさぎ]
浅葱色の、ややくすんだ浅い緑青色を言う。
■水浅葱[みずあさぎ]
浅葱色をさらににうすく、水色がからせた色を言う。
■花浅葱[はなあさぎ]
藍の単一染による青色の、「花色」がかった「浅葱色」というニュアンスであり、鮮やかな青色を言う。
などがあります。
「かぶせ」とは、視覚上の変化を狙った引き抜きのひとつです。
着物の袖口・袖先・腰などの様々な場所に作られた玉の仕掛けを、踊りながら引くと、かぶせてあった着物がはずれる。
帯を境に一瞬で引き抜かれると、隠れていた衣装があらわれます。
日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】では、
「都育ちは蓮葉なものじゃえ~」
の場面で、赤地の衣装がひきぬかれ、下段の写真のように変化します。

日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】赤地の衣装

日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】引き抜いたあとの衣装
箏曲とは、箏を主体とする音楽を指し、現代では一般に、八橋検校[やつはしけんぎょう](1614~1685)以降のものを「箏曲」 と呼んでいます。
箏曲の古典曲目では、箏伴奏歌曲として、箏を伴奏として弾きながら、歌を唄うことが圧倒的に多いのですが、 箏独奏曲として唄のない曲目・箏の高低二重奏曲なども古くからあります。
そして、近代以降では、そういった唄なしが主流になりつつあるようです。
また、江戸時代中期以降は、三味線・胡弓や尺八などとの合奏が本格的に始まり、 現代も新しい方向へと発展性を保ち続ける日本音楽のひとつ、と言われています。
地唄のことを、別名では、上方唄[かみがたうた]ともいいます。
呼び方のとおり、上方で興った長唄からきています。
上方に興った長唄は、劇場音楽から離れるようになり、地唄[じたうた]・上方唄[かみがたうた]と呼ばれるようになりました。
しっとりとした情感をもち、芸術のかおりを与える地唄とともに舞う、上方舞を、地唄舞とも呼びます。
長唄 京鹿子娘道成寺の詞章のうち、
「鐘に恨みは~思い染めたが縁じゃえ」
までを歌詞として、その後を省略して上演されることが多いのは、地唄【鐘ヶ岬】[かねがみさき]です。
日本舞踊のなかで、道成寺物という分類に入るのかどうかは定かではありません。しっとりとした地唄舞の演目として上演される地唄 【鐘ヶ岬】を、京鹿子娘道成寺ファンとしては、見逃せませんね。
鈴の入っていて、振ると鳴る「和製のタンバリン」といった感じの道具です。

両手に持っているのが、 鈴太鼓です。
この円形のふたつの小さい太鼓のなかに鈴が入っていて、このふたつを打ち合わせたり振ったりすると、音が鳴るようになっています。
曲に合わせ、早い間で打ち合わせたり、振ったりして、躍りつめていきます。

鞨鼓[かっこ]は、中国から伝来した、雅楽で使用される楽器です。
撥[ばち]で叩いて使用します。
京鹿子娘道成寺では、小ぶりにしたものを、腰や胸につけて撥で叩きながら踊りますので、別名「腰鼓」[こしつづみ]とも呼びます。

もと、儀礼の際に用いる道具のひとつであったと言われています。
「中啓」は、「能」で使われる扇の種類のひとつです。
京鹿子娘道成寺は、もと能「道成寺」からとったものですので、その名残りとして、「中啓の舞」という部分が残されています。
「鐘に恨みはかずかずござる」ではじまる部分が、「中啓の舞」となります。

京鹿子娘道成寺「中啓の舞」

「中啓」の拡大写真
真砂の庄司の娘である清姫に、僧安珍が迫られます。
僧安珍は、逃げて道成寺の鐘の中に隠れてしまいます。
追いかけてきた清姫は、その執念から蛇体に変じ、道成寺の鐘に巻きついて、鐘ごと溶かし殺してしまうのです。
これが、ごく一般的に知られている「安珍清姫伝説」です。
ただ、この伝説はもともと、女の怨念の深さや恋の執心の恐ろしさを物語る仏教説話からきていますので、 微妙に変化した様々な物語となって流布している事も事実です。例えば、道成寺縁起では、庄司の娘清姫ではなく、庄司の女房、 とされているものもあるのです。
もともと日本舞踊の京鹿子娘道成寺は、能「道成寺」からきていますが、能「道成寺」は、 この伝説の後日譚という形式をとっています。
日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】も、これにならい、同様に後日譚という展開によって、物語が進行します。
烏帽子[えぼし]とは、もと、古代の圭冠[けいかん]の変化したもので、元服した男子のかぶり物のひとつです。
もともとは、平絹などで袋形を作って、薄く漆を引いて張りをもたものでした。
平安時代末期よりは、紙を、漆で固く塗り固めて作るようになりました。貴族は平常用として用い、庶民は晴れの場合に用いたといわれています。
やがて、階級・年齢などによって、形と塗りが異なるようになったようで、立烏帽子[たてえぼし]は、そのひとつです。
ほかには、
■風折烏帽子[かざおりえぼし]
■侍烏帽子
■引立烏帽子[ひきたてえぼし]
■揉烏帽子[もみえぼし]
などの種類があります。
日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】では、金色の立烏帽子[たてえぼし]が用いられます。能「道成寺」 の形式を持ち込んだ形となっています。


舞台上で行われる衣装の変化として「引き抜き」があります。
「ぶっかえり」は、その手法のひとつです。
「引き抜き」は、色々な種類がありますが、意味合い的に見ると、
「視覚上の変化を狙うもの」と「隠していた身分・正体を顕す[あらわす]とか、性格が変わり返信するもの」があります。
■視覚上の変化を狙うもの
「かぶせ」「袋かぶせ」「二枚かぶせ」などの手法があります。
■隠していた身分・正体を顕す[あらわす]とか、
性格が変わり返信するもの
「ぶっかえり」「背われ」「袖落ち」などの手法があります。
「ぶっかえり」は、肩にある縫い目の糸を引き抜くと、上半身だけが腰を中心として、衣装が裏返しになって、 大きく性格が変わったことを示します。そのとき、裏返しになった衣装が、上下とも同じ模様になります。
もと、古代の圭冠[けいかん]の変化したもので、元服した男子のかぶり物のひとつです。
もともとは、平絹などで袋形を作って、薄く漆を引いて張りをもたものでした。
平安時代末期よりは、紙を、漆で固く塗り固めて作るようになりました。
貴族は平常用として用い、庶民は晴れの場合に用いたといわれています。階級・年齢などによって、 形と塗りが異なるようになったようです。
日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】では、金色の立烏帽子[たてえぼし]が用いられます。能「道成寺」 の形式を持ち込んだ形となっています。


日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】では、能がかり(能から取り入れられた)で、足拍子を踏みながら踊る場面があり、 これを乱拍子とよんでいます。
もともと日本古来の呪術として、足を踏むという動作を、日本人は、大切にしてきた、といわれています。
反閇[はんべい]という、陰陽家が行った特殊な足の踏み方に現れていて、日本の民俗信仰のなかでは、大地の精霊を鎮めて、 よみがえらせる、といった意味が込められていると言われています。
また、乱拍子として足を踏む時は、西洋音楽の3拍子とか4拍子のように、規則的に踏むのではなく、鼓に合わせて、 独特のリズムを刻んでいきます。
平安時代末期に起こった、
■歌舞の一種
■その歌舞を舞い歌う遊女
をさして、【白拍子】といいます。
時代的には、平安時代末期からおこり、室町時代にまで続いた、といわれています。
立烏帽子や水干、直垂に、太刀をさすという、いわゆる男装で舞うもので、鼓や、ときには笛などを用いた伴奏で舞います。
また、【白拍子】という舞は、男性・女性とも舞うものですが、男舞に秀でた遊女をさして言う場合、その遊女をさして【白拍子】 とも言い表します。
子供が舞うこともあります。
一般的にイメージしやすいと思われるのは、武蔵坊弁慶と義経が、五条橋で戦ったお話のとき、義経がしていた装束です。
その姿が、【白拍子】の姿です。
京鹿子娘道成寺以外では、浅妻船にも登場します。
以上が、女形[おんながた]の起こりから世に定着していく過程です。
もちろん、その後、歌舞伎・歌舞伎舞踊においても、日本舞踊においても、女形は重要な位置づけとなり続けています。
例えば、現代の日本舞踊において、二大長唄舞踊として上げる人もいる演目と言えば、
◆長唄【京鹿子娘道成寺】
◆長唄【鷺娘】
この二演目は、現代女形名手として名高い坂東玉三郎氏をはじめ、多くの歌舞伎役者が、舞踊演目として、舞台上演をしています。
坂東玉三郎氏の【鷺娘】にいたっては、海外公演での絶賛も含め、何百回と上演され続け、今なお、「坂東玉三郎氏の鷺娘が見たい!」 というファンが、後を絶たないと言います。
他にも、女形人気演目と言えば、『鏡獅子』『お夏狂乱』『藤娘』などなどありますが、どの演目も、 女形舞踊として人気であるだけでなく、女性日本舞踊家の上演演目としても、人気を誇る演目となっています。
女形が作り上げ磨きぬいてきた演目は、女性日本舞踊家にも、受け入れられているのです。それはやはり、 古典舞踊として歴史の洗礼をうけてもなお、輝きを失わない、女形舞踊の素晴しさのなせる業、なのかもしれませんね。
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若衆かぶきを禁止された若衆たちは、舞台に立つことを禁じられ、舞台に立つことができるのは、前髪を剃り落とした男性に限る、 とされました。
前髪を剃り落とす事は、若衆たちにとっては、屈辱的なことだった、とされています。
しかし、前髪を剃った若衆の花形たちは、そのまま野郎歌舞伎に移行し、前髪を剃った後に紫の布を置く「野郎帽子」をつけて、 女性に扮装して登場しました。
ここに女形が誕生したのです。
この頃の初期の女形の花形たちは、ほとんどが色子宿の出身者であったと言われています。
若衆歌舞伎時代の蓄積が継続された事で、この頃「歌舞伎」は非常に速いペースで発展を遂げていく事になります。
それは、「引き抜き」による「変化舞踊」の流行を含んで、ついには、元禄の時代(1688~1704)に、歌舞伎の中の舞踊が 「所作事[しょさごと]」という名で、歌舞伎からの独立した演目としても成立するようになっていったのです。
その後、宝暦の時代(1751~1764)、初代中村富十郎[かなむらとみじゅうろう]による『京鹿子娘道成寺』初演という、 現代まで続く日本舞踊の名曲の上演へとつながっていきました。
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遊女たちの舞台が禁止されるとかわりに隆盛を極めていくようになったのは、美少年を着飾って美しい女性に扮する「若衆かぶき」でした。
中世の稚児舞の流れを汲んだ少年の風流踊自体は、その当時でも決して新しいものであったわけではありません。 美少年たちの歌舞伎グループも、前から存在していたようでしたが、遊女歌舞伎の禁止によって、その人気を高めていきました。
この若衆歌舞伎時代は、現代の舞踊の基礎を培った時代、とも言われています。華やかな三味線音楽によった女歌舞伎に対して、 若衆歌舞伎には能狂言の流れが入ってことで、動き主体の集団によるおどりから、 情感や心理表現を見せる個々の舞といったものに変質していったというのです。これにより、演劇の方向へと舞踊が向いていったのです。
一方で、一般庶民の中にも衆道[しゅどう]と言われる男色が社会現象的に広まっていき、 色古宿[いろこやど]などが登場するようになりました。
若衆かぶきもその対象となっていったことで、遊女歌舞伎と同じく、風紀上の問題(同性愛)が立て続けに起こり、やはり幕府によって、 慶安五年(1652)、若衆歌舞伎も禁止されてしまいました。
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女形の歴史をひも解くには、やはりあのお方から辿っていかねばなりません。
そうです。出雲阿国です。
男装の麗人で、遊女を買うありさまを演じた出雲阿国は、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長八年(1603)、京の四条河原に登場して、 爆発的な人気を獲得しました。
その後次々と似たような一座が世に登場する事になります。
そんな中で、三味線をを舞台に上げるようになった遊女歌舞伎のグループなどもありました。彼女たちは遊女たちですから、舞台の上でも、 舞台から降りて座敷に戻っても、男性客たちをおおいに虜にしたことで、世の風紀は乱れていったといいます。
すると、寛永六年(1629)十月二十三日、「島田弾正忠殿達」[しまだだんじょうただとののたっし]として、 遊郭以外で営業する遊女の舞台が全面的に禁止されました。わずか二十数年での禁止でした。
日本舞踊にも、多岐・多方面に進化していく兆しはあります。
歌舞伎舞踊から大切に受け継いできた古典としての日本舞踊を保ちながら、新しい「創作舞踊」や、「新舞踊」として歌謡曲・小唄・ 端唄に振り付けして踊り、新しい日本舞踊が追及されています。
このような進化の兆しが、何百年も後の日本人にどう映って見えるのか・・・、なんだか楽しくてワクワクしますね。
以上、と~っても簡単に、日本舞踊の起源・始まりから現代までの何百年もの歴史を、さら~っと振り返ってみました。
くどいようですが、学術的には「!?」の箇所があるかもしれません。全体のイメージを掴めるように、という想いからの文章ですので、 何卒ご了承くださいますよう、お願い申し上げます。
日本という国は、その点が諸外国の文化と大きく異質となる点だ、という研究者もいます。
西欧諸国の芸能文化においては、前代の様式を壊して進化していくスタイルをとっているから、らしいのです。
対して日本という国は、新旧交代してしまうことなく、同時並行的に各芸能が存在しながら、互いに影響を与えて、 多岐に分裂しながら発展していく、というスタイルになっている、といいます。
これは、現代人の実感としても、とても分かりやすい話ですよね。
現代では、雅楽の人のはずの東儀秀樹氏が、現代音楽との融合を果たしながら、ヒットを飛ばしているのですから・・・。
日本に生まれたからこそ、多岐に分裂しながら進化する文化を堪能できるわけですね。
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その後、幕府の政策に翻弄され続けた歌舞伎踊りは、やがては舞台舞踊となり、演劇であり総合芸術である歌舞伎へと、 変化しながら進化していきました。
もともと歌舞伎は最初から総合的な演劇として存在したわけではなかった、といってよいのだと思います。
細部を省略して大きく言うとするならば、踊り専門の芸能が、演劇として総合化され、近代になって、歌舞伎舞踊が独立して、 日本舞踊という芸能として定着した、といったところかと思います。
もちろん、日本舞踊が独立したからといって、歌舞伎が廃れたわけではないことは、現代の歌舞伎の隆盛を見れば明らかです。
ほかにも、千年以上前の古代から続く舞楽、中世から続く能・狂言、近世からの文楽(人形浄瑠璃)などの各時代の芸能が、現代まで演劇・ 舞踊問わず共存して、行き続けています。
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日本舞踊が日本舞踊と呼ばれるようになったのは、実はそんなに昔のことではなく、近代と呼ばれる時代にはいってからのこと、 と言われています。
それまでは、歌舞伎舞踊であったのです。
中世十六世紀後半にはじまった、「風流[ふりゅう]」という、非常に民族的な踊りの中から、 女猿楽や女曲舞の流れを汲んだ女芸人のグループが形成されます。
そんな女性の芸人グループの中から、戦国時代が終わりを告げて、徳川家康が江戸に幕府を開いた、慶長八年(1603)、 京都の四条河原で、「出雲阿国」が世間の脚光を浴びることになります。
出雲阿国の踊りは、念仏踊り・ヤヤコ踊り・かぶき踊りと呼ばれ、爆発的な人気を得る事になりました。
出雲阿国は、現代まで脈々と続く、「歌舞伎の祖」と呼ばれる女性です。
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日本舞踊の起源とか始まりというと、実はとても難しいお話になってしまいます。
ここでは、難しい学説などを、正確にご紹介する事が目的ではありません。
日本舞踊って、どんなもの?いつ頃はじまったの?という素朴で一般的な内容に、 私のような一般人でもイメージしやすくなるようなご紹介にしたいと思います。
日本舞踊といった時、一般的にイメージされるのは、「藤娘」「鏡獅子」など、日本人形のような、 日本人形の題材になるようなものをイメージされませんか?恐らく、日本舞踊を日常的にはご存知でない方のイメージは、 そんなかたちなのではないか、と思います。
そういった一般的なイメージの日本舞踊とは、歌舞伎舞踊からきている、いわゆる古典と呼ばれるものなのです。また、 現代の日本舞踊の代表的な演目でもあります。
以上、日本舞踊の基本構成、五要素について見てきました。
とくに古典ものは、大体この様な感じで成り立っていますので、概要を掴んでいただくと、日本舞踊の鑑賞に、 おおいにお役に立てるのでは、と思います。
また、この五要素がそのまま当てはまらない演目も、もちろんあります。そんな時は、この五要素のうち、何が無いかとか、 どの順番を入れ替えたか、どの要素とどの要素を並列したか、など想像をめぐらしていただくのも、また楽しいものかもしれません。
最後に、おおまかに感じを掴んでいただいて、今後の日本舞踊鑑賞や、日本舞踊を習うときに、 分かりやすくお役に立てることを主題として、ご説明してきましたので、誤解を生む表現や、学術的には不正確な記述もあったかもしれません。 日本舞踊の基本に関する知識を、出来る限り「分かりやすく、その知識を今後使いやすい」ものにするための解説ですので、 そのあたりはご了承いただけましたら幸いです。
5.「チラシ」は、漢字では「散らし」と表記します。
いよいよ「起承転結」の「結」であり、「序破急」の「急」となります。
一曲の締めくくりの部分として、それまでの高揚した気分や盛り上がりを鎮めて、気分を変えて、テンポ早く展開しながら、 華やかな終曲を迎えていく部分です。踊り手・観客ともにその高ぶりを鎮めていきながら、終盤を暗示していきます。
たとえば、獅子物においては、「狂い」を見せます。「鷺娘」においては、「セメ」となります。
ちなみに地唄や箏曲においても、その終わりの部分を「チラシ」と呼びますし、舞楽においても、最後の曲のことをさして「散楽 [ちりがく]」と呼びますが、日本舞踊における「散らし」と同様の意味と考えられます。
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4.「踊り地」「起承転結」の「転」であり、「序破急」の「破」の後半部分にあたります。
それまでのクドキの息づまる展開から開放されて、それまでの話の流れは、少し脇に置いて意味から離れる事で、局面は一転し、 踊り手の踊りや立回りの見せ場になります。
音楽はリズミカルになり、小道具を持って踊ることも多くあります。華やかで派手やかな場面をみせ、 終曲に向かって舞台を盛り上げるようにすすんでいきます。
賑やかに鳴り物が入る事が多いことから、別称として「太鼓地[たいこじ]」と呼ばれることもあります。 太鼓の躍動感が舞台を盛り上げていきます。
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3.「クドキ」とは、「起承転結」では「承」の部分にあたり、「序破急」でいえば「破」の前半部分にあたります。
演目の物語が展開したり、転機となったりしますので、その曲の中心部分にあたります。
また、クドキは、「口説[くぜつ]」から来ているといわれていて、文字通り相手を口説くことになります。
ただし、日本舞踊の場合は、女形芸術として作り上げられてきた伝統から、女性が男性を口説くことが圧倒的に多いのです。
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2.「出端」は、ほかに単に「出[で]」とも言います。
人物・踊り手の登場を意味していますが、単純に登場だけではなく、人物・ 踊り手の登場のときの所作も含めた場面全体を言い表しています。
いわゆる「掴み」の部分といえ、その演目全体の出来までも左右しかねないほどの、大事な部分になります。
まずその演目の作品世界を観客に誤解無く、しっかりと伝えるため、その演出にさまざまな工夫が施されます。
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五要素の感じが何となく掴めましたでしょうか?
では、もう少し細かく、ひとつひとつの要素について、見ていくことにします。
1.置(おき・オキ)
「置」は、その曲のイントロにあたるもの、という考え方が、一番理解しやすいかもしれません。作品の場所、人物、季節等といった、 作品の設定状況やこれから登場してくる人物についての説明が語られる部分です。
正確に表現すると、長唄では「置唄」といい、浄瑠璃系統では「置浄瑠璃」といい、能では「次第」にあたります。
「置」では人物が登場するとこは、ほとんどといってよいほどありません。西洋のクラシック音楽の世界でいう「序曲」 にあたるものといってよいかもしれません。
また、この「置」があることは、演者が登場しない空白の舞台空間を作りだし、音楽だけが流れる事で、観客のこころを鎮め、 ざわめきを鎮めつつ、作品の雰囲気に誘い込んでいくという効果がある部分です。
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また、この五要素を、分かりやすく実感していただくために、別の考え方で整理してみる事にします。
「序破急」という考え方で整理してみるとすると、
■序・・・置、出端
■破・・・クドキ、踊り地
■急・・・チラシ
といった感じに分類するといいかもしれません。
ほかに、「起承転結」で整理してみるとすると、
■起・・・置、出端
■承・・・クドキ
■転・・・踊り地
■結・・・チラシ
といった分類がいいかもしれません。
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これは、大きく五つの要素から成っています。
それぞれ、
1.置(おき・オキ)
2.出端(では)
3.くどき(クドキ)
4.踊り地[おどりじ]
5.散らし(チラシ)
と呼ばれています。
先ほどから、「古典を中心とした」と言っていますのは、日本舞踊において古典とは呼ばない曲、例えば一般に「新舞踊・歌謡舞踊」 と呼ばれているものや、創作舞踊曲などにおいては、この基本的な構成があてはまらないからなのです。
そういった新しい舞踊曲は、もっと自由な構成をとることが多いものです。そのあたりは、お気をつけてご理解をお願いします。
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これは、日本舞踊を踊る側の人達にも同じことが言えます。
一見単調にみえる振り付けを、単調なこととして覚えていこうとすると、どんなにお師匠さんが素晴らしい方でも、 教室のお仲間が楽しい方でも、「飽き」がきてしまい、覚えられなくなってしまいます。
たとえ振り付けを覚えられたとしても、一曲を通して上演する場合、その踊りの流れ・メリハリなど、 基本的な構成を知っていて見せる演者と、そうでない人では、大きな差が出てきたりするのです。
それに、基本的な構成を繰り返し覚えて身に付けていくと、振り付けの覚えがとっても早くなるはずです。
では、古典を中心とした日本舞踊の共通要素とは、どのようなものなのでしょうか。
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日本舞踊には、主に古典を中心に共通する基本的な構成というものがあります。
この基本構成を知っておくと、とても便利です。
なぜなら、一般の日本舞踊の発表会などで上演される演目には、今でも古典演目がとても多いですし、人気があります。 日本舞踊を習っていて、発表会に出演する側の方々も、「いつか上達して、古典の大曲に挑戦したい!」 という想いで日本舞踊を続けていらっしゃる方が、結構たくさんいるようです。
そこで、この基本的な構成が漠然とでも、頭の中にあると、たとえば、今目の前で上演されている演目は、「いま、このあたりだから、 次の展開は、こんな感じになるのかな~?」などと、予想しながら見ることができたりします。
この予想しながら見ることができる、ということは、とても大切です。
ただ単に、何もなく「観る」という場合、どうしても観る側の脳の働きが受け身になってしまうので、はやく飽きがきてしまいます。 とっても飽きてくると、眠くなったりします。
これは、「この演目の出演者は、とっても上手。見逃せない!」と思っていても、実は、同じことが起こってしまいます。
とっても上手で素晴らしいとしても、「飽き」てしまえば、人間は、眠くなったりしてしまうものなのです。集中力のある・
なしなどの問題ではありません。